SaaSバリュエーション — ARRマルチプル・Comps・DCF・アーンアウト
SaaSのM&Aと資金調達における「値付けの仕方」を理解する。
ARR × マルチプルで値付けする理由
SaaSにはARR(年間経常収益=毎年自動更新される収益)がある。通常の受注型事業と異なり翌年の売上を高確度で予測できるため、将来キャッシュフローの視認性が高い。この予測可能性へのプレミアムとして「ARR × マルチプル(倍率)」という簡易式が定着した。
マルチプルとは業績数値に掛ける倍率のことで、たとえばARR10億円・倍率8倍なら企業価値は80億円となる。
マルチプルを決める変数
| 変数 | 説明 | 方向性 |
|---|---|---|
| ARR成長率 | 前年比で何%伸びたか | 高いほど上昇 |
| NRR(ネット収益維持率) | 既存顧客の収益維持率。100%超なら既存顧客だけで成長 | 高いほど上昇 |
| 粗利率 | 売上からホスティング費用などの変動費を引いた利益率 | 高いほど上昇 |
| TAM(獲得可能市場規模) | 狙える市場全体の大きさ | 大きいほど上昇 |
| ネットチャーン | 解約によって失われる収益の割合 | 低いほど上昇 |
NRRは「収益維持率」とも呼ばれる。アップセルとクロスセルによってNRRが110%を超えるSaaSは、新規顧客ゼロでも成長する。
Comps(類似会社比較)
Compsとは、上場SaaS企業のEV/Revenue(企業価値÷売上高)を並べて対象企業と比較する手法である。
EV/Revenue =(時価総額 + 有利子負債 − 現預金)÷ 直近12ヶ月売上。
実際の算出方法は、上場企業の決算発表資料やIR資料から時価総額・負債・売上を取り、EV/Revenueを計算する。国内の参考例としては、Faber Company(MEOチェック)、CINC(Gyro-n SEO)、Geniee(アドテックからSaaSへのピボット)などの開示情報が公開されている。
Precedent Transactions(過去のM&A事例分析)は、過去のM&A案件の取引倍率を指す。非公開案件は情報を得にくいが、DDEagle・RECOF Data・日経などの有料データベースや、FA(財務アドバイザー)が持つ実績データで補う。
DCF(割引キャッシュフロー法)
DCFは、将来のフリーキャッシュフロー(FCF)を割引率(WACC)で現在価値に換算して合計する手法である。
企業価値 = 各将来年tにおけるFCFを(1+WACC)のt乗で割り引いた値の合計 + 残余価値。
WACC(加重平均資本コスト)とは「資金調達のコスト率」であり、株主と債権者が求めるリターンを資本構成で加重平均したものである。
DCFがM&A交渉で重要なのは、買い手側FAが提示する価格に反論する根拠になるからである。割引率と成長率の前提を変えると価値が大きく動くため、その前提の妥当性を争う場で使われる。
FA(財務アドバイザー)とは、売り手側・買い手側それぞれに付き、バリュエーションと交渉を支援する専門家を指す。
アーンアウトの設計要素
アーンアウトとは、買収後に達成した業績に応じて追加対価を支払う条項であり、買い手と売り手の価値観のギャップを埋める手段として使われる。
主な設計要素は次のとおり。
- 達成指標 —— ARR、EBITDA、顧客数など。主観が入りにくい数値が望ましい。
- 期間 —— 1〜3年が一般的。長すぎると売り手のモチベーションを保ちにくい。
- キャップ(上限) —— 買い手が支払い総額に上限を設定する。
- コントロール条項 —— 買収後に買い手が事業方針を変更して達成を妨げた場合の扱いを明記する。
EBITDAとは、金利・税金・減価償却前利益のことで、企業の実力ベースの稼ぐ力を示す指標である。
出典・参考
- SaaSメトリクス —— 関連ノート
- M&Aプロセスの全体像 —— 関連ノート
- M&A契約実務 —— 関連ノート